旅に心を求めてー不条理編・上 美は悲しみの中にあり【電子書籍】[ 浜田 隆政 ]
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この本の紹介→h-takamasa.com/custom35.html/ 安らぎ文庫HP→h-takamasa.com/ 拙著公式HP→takahama-chan.sakura.ne.jp/ □ □ 【概略】第一章野麦峠への旅ー美は悲しみの中にあり。
雲、空一面を覆(おお)う。
午前四時に起き、安宿を出て、夜が明けるにつれての印象である。
野麦峠への道中、道を間違え、野麦峠についたときは暗闇であった。
野麦峠、初日は闇の野麦である。
闇の中、ミネと辰次郎の像を食い入るように見つめた。
まず、ミネの顔と脚を。
次に兄・辰次郎の足を。
翌日出直すと、今度はかなり雨が降り、雨の野麦である。
だが、濡れることをいとわず、ヤッケをとり、ミネと辰次郎像に合掌。
次に、野麦祈念碑に合掌。
祈念碑の下には次の碑文があった。
「野麦よ この峠路に縁(えにし)ある あらゆる 生命(いのち)の 限りなき 幸(しあわせ)を祈る 生き生きと輝ける日も 消えにしあとも 安らかに 合掌」。
野麦への旅、それは一九八九年六月二六日と二七日のことである。
一日目は夜、二日目は雨。
だが、今日までの旅の中で一番思い出深い旅であった。
この旅は、兄・辰二郎が病気になった妹・ミネを背負って歩き、一六七二メートルの峠を越え、家に連れて帰ろうとした、実話の舞台となった峠への旅である。
この旅と併行して、私は天武・持統陵にもよく足を運んでいた。
天武天皇は実の兄・天智天皇により命を狙われる。
ちなみに天武天皇の嫁・持統天皇は天智天皇の娘である。
さらに、兄なき後に彼が天皇となれたのは、実の兄の子を壬申(じんしん)の乱で破ってからである。
彼には今で言う妻が九人と十七人の子がいた。
彼の悩みは皮肉にもその子供たちにあった。
様々な人生の傷を癒(いや)す場である家族こそが、彼にとっては悩みの場所であった。
彼は権力と引き替えに、実の兄に対して身の危険を感じねばならず、また後に実の兄の子・大友皇子を討った(自害させた)。
しかも大友皇子の妻は自分(すなわち・天武天皇)の娘であった。
また、実の兄の娘四人と結婚し、そして、彼の悩みはその自分の子供たちのもめごとにあったからである。
天武天皇の妻・持統天皇は彼女の祖父を彼女の父(天智天皇)により殺される。
彼女の夫・天武天皇には多くの妻がおり、しかも彼女を含め四人が天智天皇の子であった。
その上、自分の子草壁皇子を天皇にしようとし、天武天皇の子の中でも血筋も能力も優れていた大津皇子を事実上殺害する。
この大津皇子は実の姉の子でもある。
このコントラストを描く旅を通じて、私は読者に訴えたい。
数学で百点を取ることは、多少難しいかもしれないが、さほど難しくはない。
だが、兄弟姉妹が全員生涯に亘(わた)り、仲良くし続けることは大変なことである。
歴史は、それを物語っている。
我々は歴史の中から、それを、学ばなければならない。
学問とは、本来、そうしたものである。
ちなみに、富豪や権力を持っている人物の子供たちが、生涯に亘り、全員仲良く過ごしたという事例を、私はほとんど知らない。
**数学で満点を取ることよりも、英語で高得点を取ることよりも、もし、あなた方の子供たちが互いに仲良くしていたならば、それにまさる教育はない。
兄弟姉妹でなくても、小さな子供たちが、友達同士で手をつないで歩いている姿を見たとき、私は道の上で宝石を見た想(おも)いがするときがある。
** 我々は歴史から何を学ばなければならないのか。
いや、人生・社会の中で、生きている内に何を学ばなければならないのか。
野麦への旅では、映画『黒部の太陽』の舞台となった、黒部ダムにも足を運び「科学と人間」の問題を問うた。
更に松代大本営跡にも足を運び、旅に想った。
旅は人なり、心なり、それが旅の心である。
旅はその人自身であり、その人の心そのものであり、それが旅の心(神髄)である、と痛感した。
□ □ 第二章広島への旅ー……命に想う。
一九九四年、勤務先の大学校と予備校の教材を作成するため、「原爆の子の像」を求めて、広島へ行く。
そこで「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に出会う。
この碑の前で、女子高校教師時代が脳裏をよぎった。
私は純粋に生徒に勉学を必死に教えたいと願っていた。
他方、生徒は本当の勉学に飢え、同時に教師への潜在的愛着を持っていた。
もし、この両者がどこかで出会えば良き友・学友・学兄妹となれたであろう。
だが教壇・学校という場で出会えば対立が起こることが多々あった。
この碑の前で次の一文を記した。
「特にすぐれてもおらず、子供にも好かれているわけでもない教師がいる。
そして、優秀でもなく、特に教師に好かれてもいない生徒がいる。
それが、原爆の瞬間には 自然とその子供を抱いている教師の姿である。
この像の意図は私の想いとは無関係であろう。
だが、ふとそう考えたのである。
どの教師も、(すべての教師が無意識に持つ) 何かへの思いを持って教師にならんとする。
どの生徒も本質的には 何かを学ばんとして学校に来る。
それが、今日のように不協和音をたてるのは何故(なぜ)だろうか。
同様に、幼い子は本能的に善なるものを求め、親も子にそれを求める。
だが、一人の親は原爆をつくり、一人の親はそれを使用し、一人の親はそれを使用するように指示すらした。
そして、原爆に苦しんだ人達、今も苦しんでいる人達がいる。
その像が、想いがここ広島平和公園にはいくつも存在する。」(九四年七月一九日・浜田記す)。
この文章を記した後で、次の問題への回答を迫られた。
原爆投下により、日本の植民地被害に遭(あ)った国の人々や、米国軍人数百万人もの命を救ったのだ、と。
だから、あなた(私)の文章はおかしい、と。
更に、この原稿を最初に教材化した、まさにその年・一九九五年スミソニアン航空宇宙博物館で企画された、エノラ・ゲイを中心とする原爆展が議会や軍人会の圧力で中止に追い込まれた。
そこで、なおさら、この問題(原爆犠牲者と日本の侵略戦争被害者との命の天秤問題)への回答・解答を求められた。
そして、解答を求め幾多の旅をすることになる。
その道中、大学時代の学園紛争が脳裏をよぎった。
私は非暴力・不服従派(ガンジー・キング牧師派)である。
だが、ふとしたことで大学紛争に巻き込まれたことがあった。
そしてあるとき、混紡(こんぼう)を持たされ、ヘルメットをかぶった学生と対峙(たいじ)していた。
そして衝突……。
もし、このときに、相手が私の下になれば、私は混紡でその人間を殴ったのであろうか。
ムカデさえ当時は殺さなかった私が。
この経験が、現在まで三十年以上党派中立・宗派中立の土台となった。
これらの不条理への解答も迫られた。
ベトナム戦争の頃、モハメッド・アリが徴兵を拒否して懲役五年罰金一万ドルの刑を受けた(一九七〇年最高裁は無罪判決)。
彼は言った。
「ベトコンはオレを『ニガー』と呼ばない。
彼らには何の恨みも憎しみもない。
殺す理由もない…… いかなる理由があろうとも、殺人に加担することはできない……何の罪も恨みもないべトコンに、銃を向ける理由はオレにはない」。
そして、彼は、ライセンス剥奪、試合禁止等、全米のすべての州でボクシングをすることを禁止され、WBA・WBC統一世界チャンピオンベルトを取り上げられる。
その上、パスポートまで没収されてしまい、海外で現役を続ける道も閉ざされる。
何の恨みもない人間を、なぜ殺しに行かなければならないのか。
民主主義を守るため。
だが先の私の例を見てほしい。
そう、戦争という不条理への解答も迫られた。
すなわち、教師と生徒、原爆犠牲者と植民地被害者、恨みもない人間同士の戦(いくさ)と画面が切り替わりますので、しばらくお待ち下さい。
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